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受験勉強をしていた当時のことですが、中国の古典を読んでいた時期がありました。
そのときに私の頭の中に強く印象に残った場面がありました。
先日の「真相報道バンキシャ!」のやらせ問題で日本テレビ社長の辞任の報道をみたときに
ふとその場面を思い出しましたが、原典をはっきりと思い出すことができませんでした。
それでうろ覚えな記憶を頼りにインターネットで調べてみましたが、運良く見つけることができました。
「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん) 襄公二十五年」のなかに出てくる一文でした。
原文は次のとおりです。
「大史書曰, 崔杼弑其君。崔子殺之。其弟嗣書。而死者二人。
其弟又書。乃舎之。
南史氏聞大史盡死, 執簡以往。聞既書矣, 乃還。」
内容については、三国志―正史と小説の狭間~満田剛のブログ
歴史家の明と暗―王沈、韋昭、そして陳寿(その1)〔2008年3月12日改訂版〕 [ 三国史研究 ]
http://mitsuda.blogtribe.org/entry-caa07776f943d87509bfc31d70d45c4d.html
から引用します。
例えば、春秋時代の斉で主君が殺害される事件が発生したとき、大史はその事実を書いたために犯人に殺され、
その2人の弟たちも同じことを書き続けたために 同じように殺されたが、4人めの弟も同じことを書いたので主君殺害の犯人も諦めた
という話(襄公25年〔前548年〕)がある。
この話には、大史兄弟が全 員殺されたと聞いた(誤報であったが)南史氏は斉の主君殺害について書いた竹簡をもって
周の朝廷に出かけたが、その通りに記録されたと聞いて引き返したと いう話も加えられている。
少なくとも、この話が載っている『春秋左氏伝』(孔子が編纂したとされる史書・『春秋』に左丘明が注釈したとされる書で、
関羽が 暗誦していたとされる)を学んだ者たちにすれば、歴史を書き残すということには命懸けの覚悟が必要だ
ということは当然であったろう。
それだけに、権力に遠 慮して事実を曲げて書く「曲筆」は忌み嫌われたのである。
[・・・・ここまで引用終わり]
日本テレビの「バンキシャ!」という番組はそのタイトルに「真相報道」をつけていました。
「真相報道」なのに実は「やらせ報道」だったので社長辞任という形になったわけです。
中国の正史を記述する史官は自分の職務を全うするためには命がけだったわけですが、
その結果が現在まで中国の正史に書かれている内容が信用されている理由になっていると思います。
いつの時代でも権力者に都合の悪い内容を記録に残したり公表したりすることは命がけだということになります。
そう考えると今の日本の大手マスコミの報道姿勢をみているとどうなんでしょうね。
番記者や記者クラブといったシステムの中で生み出される報道内容から「真相」が見えることってあるんでしょうか?
それにネットなどに流れるうわさには釣られないように注意しながら事実を書くことは思ったよりも大変な作業ですね。
そういう私も自分が実際に体験した事実をどの範囲まで自分の個人のブログで書けるんだろう?
最近はちょっと慎重になっています。
注:「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)」の原文は「北杜市学校給食センター問題のブログ」
http://blog.goo.ne.jp/hokuto_kyushoku/e/c17b4411b84ea953e53b29188c56d936
「襄公二十五年 夏五月 斉の崔杼、其の君光を弑(しい)す――記録するということ」で見つけました。
参考までにそちらのサイトから「斉の歴史11」を下に転載します。
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/chunqiu/sei/sei11.htm
崔杼、其の君を弑す
霊公の二十七年(前555年)、斉国はその頃、盟主とも言うべき晋に対して離反の意を示すようになり、この年の秋に魯国へ侵攻した。
晋の平公は魯を助けるため、卿の中行献子(荀偃=じゅんえん)に斉を攻撃させた。
斉軍は大敗し、霊公は晏嬰(=晏子・晏弱の子)の止めるのも聞かず、都・臨(りんし)に逃げ込んでしまった。
晋の范宣子(士=しかい)の、「魯国と国が千輌の戦車を率いて斉に攻め込みたいと言うので、許可を与えてしまいました。
もしこれが攻め込んできたら、貴国はひとたまりも無いでしょうな。」という脅し文句に縮み上がってしまったのである。
晏嬰は「我が君はもともと勇気が無いというのに、こんな話を聞いたら長くはもつまいな。」とぼやいた。
晋軍は臨を包囲したがその守りは堅く、結局外城を焼き払って引き上げた。
霊公二十八年(前554年)、霊公は以前、魯の公女から生まれた公子光を太子に立てていた。
しかしここへ来て光を廃して、寵愛する仲姫から生まれた公子牙を代わりに太子とし、高厚をその守り役とした。
が、霊公が重病に伏せると、崔杼は公子光を国君の位につけてしまった。これが荘公である。
霊公の死後、崔杼は政敵の高厚を殺し、荘公は公子牙を殺した。
荘公の六年(前548年)、崔杼は棠公(とうこう・棠の地の大夫)の未亡人・棠姜を娶ることにした。
棠姜の弟である東郭偃(とうかくえん)は、「崔氏は斉の丁公の子孫であり、東郭氏は桓公の子孫である。
同じ姜姓を持つ両家の婚姻は認められない」と反対したが、結局崔杼は棠姜を娶ったのである。
この同姓婚は良い結果に結びつかなかった。
荘公が度々崔杼の屋敷を訪れ、棠姜に強要して密通を行うようになったのである。
従者はそれを諫めたが、聞き入れる荘公ではない。
崔杼はもちろん主君の無道な振る舞いに激怒し、いつか思い知らせてやろうと心に誓った。
そして復讐の時は訪れた。崔杼が病に伏せっていると聞き、荘公が見舞いにやってきたのである。
荘公は早速棠姜の寝所に入り込もうとしたが、屋敷の中から崔杼の手の者が押し寄せ、荘公を討ち取ってしまった。
晏嬰はその事を聞くと崔杼の屋敷を訪れ、主君の遺体を目の前にして大声で泣き、悲しみの意を表す哭礼(こくれい)を行った。
ある人は崔杼に晏嬰を殺すよう勧めたが、崔杼は「あれは人民に慕われている。ここで殺してしまっては人心を失うことになる。」
と言って、晏嬰を放っておくことにした。
崔杼は荘公に代わり、その異母弟にあたる杵臼(しょきゅう)を景公として即位させた。
そして崔杼と慶封(けいほう)はそれぞれ宰相に任じられた。
二人の宰相は国の大夫たちに、自分達の命令に従うように誓いを立てさせたが、晏嬰だけは天を仰いで
「私はただ主君に忠義を尽くし、社稷(しゃしょく=国家)に対して利益を計る者に従うだけだ。」と言い放ち、誓約に加わらなかった。
慶封は彼を殺そうとしたが、崔杼はやはり「なかなかの忠臣ではないか、放っておけ」と言って取り合わなかった。
さて、斉の国の太史(歴史の記録などを司る官)は、崔杼が荘公を討ったことに対して、「崔杼、其の君を弑す」と記述した。
(「弑す」(しいす)は、臣下が主君を殺して謀反を起こすという意味であり、下克上の意を示す。
つまり、崔杼が悪事を行ったことを強調して彼を批判しているのである。)崔杼はこれが気に入らず、太史を殺してしまった。
ところが太史の弟たちが兄の仕事を引き継ぐと、やはり同じように記述する。
崔杼は太史の二番目と三番目の弟も殺したが、四番目の弟も「崔杼、其の君を弑す」と記述するのを見て、
記録を改めさせるのをあきらめた。
一方、太史の一族が全員殺されたと聞き、南史氏が彼らの意志を引き継いで正しい記録を残そうと朝廷に出掛けたが、
四番目の弟が生き残って使命を果たしたことを聞くと、引き返して行った。
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プロフィール
その影響でアジアの人たち(特に中国と韓国)の思考方法を理解するつもりで、ネットでいろんな情報を集めるようになりました。
2012年からは休耕田を借りて新規就農しました。
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