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北朝鮮は大人気ないと思う。
アメリカが食料援助しないから弾道ミサイル撃つぞ!という感じでしょ?
デパートで子供が欲しいものを買ってくれないからと駄々をこねて暴れている光景とダブります。
それに振り回される関係機関の人たちは大変だと思います。
警察車両に誘導されて仙台港から陸路で慣れない道を夜間通ってきたわけですね。
それで演習場に入る手前の道の信号を素通りして
県立こまち球場に入ってUターンしようとしたら引っかかって出られなくなったと・・・・・。
別に北朝鮮が行動をおこす前に到着できたんだから問題と思うけど騒ぐ人は騒ぐんでしょうね。
でも秋田県の新しい観光名所ができたという感じもしますね。
ここでプロ野球をやれば注目されて盛り上がるんじゃないかな。
つくづく日本は平和だな。
そう感じたニュースでした。
受験勉強をしていた当時のことですが、中国の古典を読んでいた時期がありました。
そのときに私の頭の中に強く印象に残った場面がありました。
先日の「真相報道バンキシャ!」のやらせ問題で日本テレビ社長の辞任の報道をみたときに
ふとその場面を思い出しましたが、原典をはっきりと思い出すことができませんでした。
それでうろ覚えな記憶を頼りにインターネットで調べてみましたが、運良く見つけることができました。
「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん) 襄公二十五年」のなかに出てくる一文でした。
原文は次のとおりです。
「大史書曰, 崔杼弑其君。崔子殺之。其弟嗣書。而死者二人。
其弟又書。乃舎之。
南史氏聞大史盡死, 執簡以往。聞既書矣, 乃還。」
内容については、三国志―正史と小説の狭間~満田剛のブログ
歴史家の明と暗―王沈、韋昭、そして陳寿(その1)〔2008年3月12日改訂版〕 [ 三国史研究 ]
http://mitsuda.blogtribe.org/entry-caa07776f943d87509bfc31d70d45c4d.html
から引用します。
例えば、春秋時代の斉で主君が殺害される事件が発生したとき、大史はその事実を書いたために犯人に殺され、
その2人の弟たちも同じことを書き続けたために 同じように殺されたが、4人めの弟も同じことを書いたので主君殺害の犯人も諦めた
という話(襄公25年〔前548年〕)がある。
この話には、大史兄弟が全 員殺されたと聞いた(誤報であったが)南史氏は斉の主君殺害について書いた竹簡をもって
周の朝廷に出かけたが、その通りに記録されたと聞いて引き返したと いう話も加えられている。
少なくとも、この話が載っている『春秋左氏伝』(孔子が編纂したとされる史書・『春秋』に左丘明が注釈したとされる書で、
関羽が 暗誦していたとされる)を学んだ者たちにすれば、歴史を書き残すということには命懸けの覚悟が必要だ
ということは当然であったろう。
それだけに、権力に遠 慮して事実を曲げて書く「曲筆」は忌み嫌われたのである。
[・・・・ここまで引用終わり]
日本テレビの「バンキシャ!」という番組はそのタイトルに「真相報道」をつけていました。
「真相報道」なのに実は「やらせ報道」だったので社長辞任という形になったわけです。
中国の正史を記述する史官は自分の職務を全うするためには命がけだったわけですが、
その結果が現在まで中国の正史に書かれている内容が信用されている理由になっていると思います。
いつの時代でも権力者に都合の悪い内容を記録に残したり公表したりすることは命がけだということになります。
そう考えると今の日本の大手マスコミの報道姿勢をみているとどうなんでしょうね。
番記者や記者クラブといったシステムの中で生み出される報道内容から「真相」が見えることってあるんでしょうか?
それにネットなどに流れるうわさには釣られないように注意しながら事実を書くことは思ったよりも大変な作業ですね。
そういう私も自分が実際に体験した事実をどの範囲まで自分の個人のブログで書けるんだろう?
最近はちょっと慎重になっています。
注:「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)」の原文は「北杜市学校給食センター問題のブログ」
http://blog.goo.ne.jp/hokuto_kyushoku/e/c17b4411b84ea953e53b29188c56d936
「襄公二十五年 夏五月 斉の崔杼、其の君光を弑(しい)す――記録するということ」で見つけました。
参考までにそちらのサイトから「斉の歴史11」を下に転載します。
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/chunqiu/sei/sei11.htm
崔杼、其の君を弑す
霊公の二十七年(前555年)、斉国はその頃、盟主とも言うべき晋に対して離反の意を示すようになり、この年の秋に魯国へ侵攻した。
晋の平公は魯を助けるため、卿の中行献子(荀偃=じゅんえん)に斉を攻撃させた。
斉軍は大敗し、霊公は晏嬰(=晏子・晏弱の子)の止めるのも聞かず、都・臨
(りんし)に逃げ込んでしまった。
晋の范宣子(士
=しかい)の、「魯国と
国が千輌の戦車を率いて斉に攻め込みたいと言うので、許可を与えてしまいました。
もしこれが攻め込んできたら、貴国はひとたまりも無いでしょうな。」という脅し文句に縮み上がってしまったのである。
晏嬰は「我が君はもともと勇気が無いというのに、こんな話を聞いたら長くはもつまいな。」とぼやいた。
晋軍は臨
を包囲したがその守りは堅く、結局外城を焼き払って引き上げた。
霊公二十八年(前554年)、霊公は以前、魯の公女から生まれた公子光を太子に立てていた。
しかしここへ来て光を廃して、寵愛する仲姫から生まれた公子牙を代わりに太子とし、高厚をその守り役とした。
が、霊公が重病に伏せると、崔杼は公子光を国君の位につけてしまった。これが荘公である。
霊公の死後、崔杼は政敵の高厚を殺し、荘公は公子牙を殺した。
荘公の六年(前548年)、崔杼は棠公(とうこう・棠の地の大夫)の未亡人・棠姜を娶ることにした。
棠姜の弟である東郭偃(とうかくえん)は、「崔氏は斉の丁公の子孫であり、東郭氏は桓公の子孫である。
同じ姜姓を持つ両家の婚姻は認められない」と反対したが、結局崔杼は棠姜を娶ったのである。
この同姓婚は良い結果に結びつかなかった。
荘公が度々崔杼の屋敷を訪れ、棠姜に強要して密通を行うようになったのである。
従者はそれを諫めたが、聞き入れる荘公ではない。
崔杼はもちろん主君の無道な振る舞いに激怒し、いつか思い知らせてやろうと心に誓った。
そして復讐の時は訪れた。崔杼が病に伏せっていると聞き、荘公が見舞いにやってきたのである。
荘公は早速棠姜の寝所に入り込もうとしたが、屋敷の中から崔杼の手の者が押し寄せ、荘公を討ち取ってしまった。
晏嬰はその事を聞くと崔杼の屋敷を訪れ、主君の遺体を目の前にして大声で泣き、悲しみの意を表す哭礼(こくれい)を行った。
ある人は崔杼に晏嬰を殺すよう勧めたが、崔杼は「あれは人民に慕われている。ここで殺してしまっては人心を失うことになる。」
と言って、晏嬰を放っておくことにした。
崔杼は荘公に代わり、その異母弟にあたる杵臼(しょきゅう)を景公として即位させた。
そして崔杼と慶封(けいほう)はそれぞれ宰相に任じられた。
二人の宰相は国の大夫たちに、自分達の命令に従うように誓いを立てさせたが、晏嬰だけは天を仰いで
「私はただ主君に忠義を尽くし、社稷(しゃしょく=国家)に対して利益を計る者に従うだけだ。」と言い放ち、誓約に加わらなかった。
慶封は彼を殺そうとしたが、崔杼はやはり「なかなかの忠臣ではないか、放っておけ」と言って取り合わなかった。
さて、斉の国の太史(歴史の記録などを司る官)は、崔杼が荘公を討ったことに対して、「崔杼、其の君を弑す」と記述した。
(「弑す」(しいす)は、臣下が主君を殺して謀反を起こすという意味であり、下克上の意を示す。
つまり、崔杼が悪事を行ったことを強調して彼を批判しているのである。)崔杼はこれが気に入らず、太史を殺してしまった。
ところが太史の弟たちが兄の仕事を引き継ぐと、やはり同じように記述する。
崔杼は太史の二番目と三番目の弟も殺したが、四番目の弟も「崔杼、其の君を弑す」と記述するのを見て、
記録を改めさせるのをあきらめた。
一方、太史の一族が全員殺されたと聞き、南史氏が彼らの意志を引き継いで正しい記録を残そうと朝廷に出掛けたが、
四番目の弟が生き残って使命を果たしたことを聞くと、引き返して行った。
読売新聞の販売所を辞めてからは、私は大体1~3年で転職を繰り返していました。
この仕事が自分にあっているのかどうか判断しようとすると、
どうしても最低1年は続けないと分からないと思ったからですが、
交通誘導の警備員、ファミレスのウェイター、コンビニの店員、倉庫内で配送作業、
自衛隊、グッドウィルにフルキャストの派遣などなどいろいろ経験してみました。
中間管理職としての管理者教育はおよそ10年間の自衛隊時代に経験できました。
でも工場のライン作業の経験がなかったので、海外でも有名なTOYOTAの「カンバン方式」を
一度実際に経験してみようと思いました。
それで日研総業という派遣会社へ行って相談してみたら・・・・・
そのときの担当の人が説明するには、とにかく精神的にも体力的にも重労働らしい。
休憩時間以外はひたすら同じ作業を立ち姿でえんえんと繰り返すので
体を壊す人もよくいるし大変ですよ、ということでした。
じゃあ似たようなライン作業で比較的楽な所はありますか?
と聞くと長野県長野市にある「新光電気」というところを紹介してもらいました。
ここは昼勤3日、休み1日、夜勤3日、休み2日のサイクルで12時間勤務でした。
やってみてすぐに思ったことは、単調な作業を12時間続ける仕事はやるもんじゃない、
ということでした。それにライン作業ではなかったので、とても私には続かないと感じました。
それでここは6ヶ月で辞めて、ふたたび日研総業で昼夜の交代制でない現場はありませんか?
と相談したら、長野県の安曇野市にあるSONYはどうですか?
ここは昼と夜と完全に分かれているし、繁忙期以外は完全週休2日制なので、
お金はあまり稼げませんが初心者でも働けますよ。ということでSONYへ行くことになりました。
行ってみて初めて知りましたが、ここのライン作業は「カンバン方式」
ではなくて「セル生産方式」と呼ぶんだそうです。
ほんと世の中知らないことばかりです。
中ではVAIO の検査工程が中心でしたが、それ以外の工程の作業もいろいろ経験できました。
2006年のバッテリーの回収騒動のときには、2Fにあるバッテリーラインの応援にも行きました。
(富士通にOEMで供給していたものです)
2008年9月に全世界規模でリコールが起きたVAIO type T の製造も経験できました。
今ではsony style で販売が終了がした mylo com-2 のラインテストにも立ち会えました。
いろいろ経験できたおかげで、ようやく自分のライフワークはこれだというものが探せたと思います。
たぶんこれから軌道に乗るまでに私のことだから4~5年かかると思います。
ということで今までの自分の行き方を数回に分けて少しまとめてみました。
少し自分の頭の中を整理できました。
これでまたいつものようにマイペースでリネージュを遊べると思います。
大学進学は中堅私大クラスなら行こうと思えば行けました。
ただ進学するとなると学費が当然かかるし、あと4年間、新聞配達を続けるのか?
という迷いがありました。
まだまだ世の中はバブル景気です。
大学生が就職したい業界は証券業界が上位にランクインしていたと思います。
はっきりとした目的のなかった私は勉強よりもやっぱり遊びたかったですね。
でも大学行かないから田舎にもどりますというのも嫌だったので、
「石の上にも3年」というから3年間は新聞配達をしてみようと漠然と考えました。
専業になった私が東京で読売新聞を配達していた当時、
新宿アルタ付近の商店街をコスプレをして朝日新聞を配達している人がいました。
週刊誌やフジテレビの笑っていいとも!でも話題になったような記憶があります。
DJオズマ風アフロヘアでレオタード姿で肩からラジカセをぶら下げて(もちろん音楽を流してます)、
反対側には新聞を小脇に抱えて軽快に走リまわっていました。
アバターでイメージを再現しようと思ったけれど、肩から提げたラジカセが見つかりませんでした。
今はラジカセを持って新宿を闊歩(かっぽ)する人なんかいないから、やっぱり時代を感じます。
(↓:こんな感じだと思った。反対側の腕には新聞を抱えています)
今の若い人には「ラ講」といっても分かってもらえませんね。
「らこう?」「何のことですか?」とひらがなで返されると今度は私が分かりません。
ウィキで調べたら1995年に番組が終わっていたんですね。
そうですね。
今はインターネットがあるからね。
本当に便利な世の中になったものです。
当時高校生だった私は朝5時から始まる短波放送で番組を聞いていました。
私の頃には共通1次試験がありましたが、
これもひょっとしたら死語かもしれない。
私の場合は高校生活の間に将来これになりたいという進路を決めることができませんでした。
ただ単に自分の住んでいるいなかから離れて東京のような都会に出て暮らしてみたいという
ばくぜんとした気持ちしかありませんでした。
だから現役合格できなくて浪人を決めたときにも田舎にはいたくなかったから、
読売新聞の新聞奨学生に応募して代ゼミに通うことにしました。
1年間新聞配達をすれば新聞社が全額立て替えて払った代ゼミの学費は返済しなくてもいい、という制度です。
高校も家の事情で日本育英会の奨学金をもらって通っていたから、
あの当時の私の頭では東京へ行く方法はこれしか思い浮かびませんでした。
代ゼミは国立文系コースにいたけれど、田舎の高校とは教え方がぜんぜん違う先生方がほとんどでした。
中でも金ピカ佐藤先生(英語)とか武井先生(世界史)の講義の雰囲気は今でも脳裏に焼きついています。
金ピカ佐藤先生の講義で英語についての苦手意識が完全に払拭されました。
英語は決して難しくない。
英語が公用語の国だったら当たり前のことですが、赤ん坊でもやくざ(マフィア)でも英語は話します。
そのことに気づかせてくれたのが金ピカ佐藤先生でした。
武井先生の世界史については、1コマ90分間、講釈師のようにひとりで話し続けるという独特な講義でした。
ひとつの国や地域から始まったささいな出来事がどのような経路で周辺諸国へ拡がり発展していくのか、
時間や空間を飛び越えてどのような形で後世の世界に影響を及ぼしていくのか、
そこから現代人は何を学べばよいのか、武井先生からは
世界史を理解するためのアプローチの方法を学んだような気がします。
私は結局大学には進学しないで新聞配達を専業もふくめて都合3年半やりましたが、
受験戦争の是非は別にして、受験勉強は無駄にはならなかったと思っています。
分からないことは自分が納得できるまで調べて、できるだけ明瞭簡潔な文章にまとめるという習慣が身につきました。
社会に出ても仕事を早く覚えるためには、知っている人からとにかく聞きまくる「なんでも教えて君」よりも
聞く前に少しだけ自分で予習して調べてから話を聞いた方が効率がいい場合も多いものです。
あれから何年たったんだろう?
この時期になるといまだに当時のことが夢の中に出てきたりもしますが、まだぼけるには早すぎますね。
静電気・・・・外から帰ってきて部屋に入ろうとドアのノブに触れた瞬間に、
いきなりバチッ!と火花が飛んで・・・・アイタタタ・・・・となるいやな奴です。
パソコンとか精密電子部品でも大敵で、あれ一発で部品が確実に壊れますね。
(↓ 参考 http://allabout.co.jp/computer/pc/closeup/CU20060104A/
冬の乾燥に注意! 静電気がPCを壊す
自宅で個人がやれる対策でいうと、市販されている静電気除去グッズを利用することが一番簡単だと思います。
あとは素手でさわらないということでしょうか。
当然ながら電子部品を扱っているパソコン工場では静電気対策は万全にやってます。
ブレスレットタイプのグッズにアース線をつけたものを手首や足首につけて作業している光景は普通に見られます。
[2009-02-17-2345追記]
組み立て現場では「アースバンド」と呼ばれています。
一例として「サンワのリストバンド」を紹介します。
他にもいろいろな静電気対策を組み合わせています。
問題があるとすればそこで働く従業員の意識でしょうね。
たぶんインフルエンザでなくて疲労からくる風邪だと思う。
以下はソースが消えそう(埋もれそう)なので保存目的の個人的なメモです。
実際に人が死んでいるのに、それをもて遊ぶようなネット上での書き込みは
とくめいだから分からないだろうという軽い気持ちからやっていても危険です。
近い将来、昔のネットの書き込みが原因で自分の人生を棒に振るかもしれません。
このような書き込みは個人的には絶対にするべきでないと強く思います。
2009年2月4日の長野県のローカルTV局である信越放送が下のような報道をしました。
27才の男性がJR大糸線にある踏み切りで飛び込み自殺したらしい。
JR大糸線・人身事故でダイヤ乱れる (2009年02月04日17時47分)
JR大糸線は南豊科駅と中萱駅の間にある日光寺踏切で、人が特急列車にはねられたため、
午後3時30分過ぎから松本駅と穂高駅の間で運転を見合わせました。
TVの報道では性別も年齢も分かりませんでしたが、翌日の市民タイムス(中信地方のミニ新聞社)
の紙面では、男性(27才)とありました。(WEB版では記事そのものがありません)
年齢が出ていたので、おそらくは身元が分かる証明書を持っていたと思われます。
また、とくめい報道だったので新聞社や警察に身元を問い合わせても徒労に終わると思います。
いろいろな事情があってのことだと思いますが、ご冥福をお祈りいたします。
そのあとのネット掲示板での書き込みで次のようなものがありました。
「派遣業界板」【KEITEM】ソニー長野テック -日本ケテイム-
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/haken/1222663738/265
私は今も安曇野在住ですが、豊科近辺の寮で自殺という情報が本当なのかどうかは確認できませんでした。
もしも本当にあったとすれば、いずれ分かると思います。
ひょっとしたらJR大糸線での人身事故のことかもしれませんが、
こちらの情報を元にしていたとすれば、これほどたちの悪いデマもないと思います。
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プロフィール
その影響でアジアの人たち(特に中国と韓国)の思考方法を理解するつもりで、ネットでいろんな情報を集めるようになりました。
2012年からは休耕田を借りて新規就農しました。
